ノンデュアリティって? メリットとデメリット

ノンデュアリティとは?-福岡たまゆら庵 スピリアル−ブログ

僕がそう思っているだけかもですがノンデュアリティという言葉がでてきたように感じます。

ノンデュアリティに関する本を読んでいるのですが「あぁなるほどぉ、この感覚わかるなぁ」と思いながら読んでいます。

ノンデュアリティってなんでしょう?

大昔から知っている人はいました。たとえばブッダや老子などで、このノンデュアリティを悟りといったりタオと表現していたのではと僕は考えています。

これからノンデュアリティについて興味を持つ人が増えるかもと僕は感じています。

ただ、日本のスピリチュアルって幼稚で精神的に未成熟な人も多く、変な勘違いを真理だといって広げようとする人もいます。

ノンデュアリティって言語化できるものじゃなく、感じるものです。

なので言ったもん勝ちです。正解がないので、ノンデュアリティを探求している人が「ちゃんとした正解」をもとめて、これが正解と言い張る人たちの言うことを鵜のみにするかもです。

スピリチュアルなコトの探求は、まず自分軸があること。
そして、自分の頭で考えて、自分の足であるくこと。
そうやって正解を求めていくものだと僕は思っています。

ノンデュアリティってメリットとデメリットがあります。鵜のみにすることで、デメリットの部分が変にはたらいて、

んじゃあ死んだほうがラクじゃん

と考える人がいるかもと僕は考えています。

ただ、それって違うと思うわけです。

せっかく生まれてきたんだから、たまにはSoraでもながめながら、ゆるふわに心地よい時間を楽しむために、ノンデュアリティな感覚をつかってほしいと思っています。

と、なんか知っている風で書いていきますが、僕もまだ研究中ですので、一緒にノンデュアリティについて知ってもらえればと。

ノンデュアリティとは?

ノンデュアリティとはなんなの?

と、言葉だけは知っているけど、なんのことかわからないという人もいるかもです。僕なりの解釈ですが、

ノンデュアリティを日本語にすると「非・二元(的なモノ)」です。

この世界は二元的なモノが合わさってできています。

たとえば男と女が出会って家族になったり、光と闇が対立して世界ができているとか。

だけど、それって自分がつくった錯覚かもよ?

そうとらえるのがノンデュアリティ的な考えかたです。

すべては錯覚で、その錯覚をつくっているのは自分なんだけど、その自分ですら存在しない。

現にこうして、変なおじさんが書いているブログを読んでいるワタシ。

このワタシは存在しないってどういうこと? そう考えている自分がいるじゃん。

それが存在しないってどういうこと?

そう思っているか、この時点で思考停止しているかもです。

それでOKです。興味があればつづきを読んでみてください。

ある日突然、あぁそういうことかとひらめいたり、もしかしたら完全に忘れているかもです。それでOKです。

言語化できないので、これが正解というモノはなく、自分でこれがノンデュアリティの感覚かぁというのがあれば、それが正解です。

で、その正解は、あっちいったりこっちいったりします。そのすべてが正解です。

あえて「これが正解」というモノをあげるなら「今ここ」で感じているものです。

で、この言語化できないものをブッダは悟り、老子はタオとして表現したんだと僕は思っています。

ワタシというものは幻想です。自分というモノが存在していること自体が。そして、自分がもっている悩みや苦しみも幻想です。

ワタシは宇宙人とかワタシはユニコーンとほざいているのと一緒なわけです。自分が存在していると考えることは。

それがノンデュアリティで、僕がつかっている「魂のままの自分」の感覚です。

ノンデュアリティのメリット

自分というものは存在していなくて、そんな自分というものが持っている悩みや苦しみということも存在しない。

すべては幻想なんだ。

そう考えたら、悩むことや苦しむことがバカらしくなりませんか?

ならないんですね。じゃあいいです。

「やるよ!」のくだり

いまこれを読んでいる人がどう考えているかはさておき、ノンデュアリティの感覚をつかむと、悩みや苦しみから解放されます。

もう少しくわしく言うと、悩みや苦しみ自体がなくなることはありません。

悩みや苦しみのとらえかたが変わります。

あぁ痛そうだなぁ、つらそうだなぁ

と他人事のように、自分の悩みや苦しみをとらえられます。

そうなると余裕がうまれやすくなります。

その状態がデフォルトになっていると、気づきやすくなります。

傷ついたり、悩んだり苦しんでいる自分に気づきやすくなるわけです。

んでもって、他人事のようにとらえているので、処置しやすくなります。

痛いよ〜

とコケて膝をすりむいた、大泣きしている子どもがいたら、

おぉ、大丈夫かい? 痛いのイタイの飛んでけ〜

といって絆創膏を貼ってあげる感じです。

ノンデュアリティのワナ

ワナ……でかすぎでしょ?

なんだけど、このノンデュアリティはワナがあるとも考えられます。

ヘタすると命おとすことになるかもです。

なんせ自分が存在しないから。

自分は存在しないんだ。んじゃあ、この悩みや苦しみをもった自分をなくしてもいいんじゃね?

そう考える人もいるかもです。絶賛中2病わずらい中の人とか。

呪文のように「自分は存在しない」ことを繰り返して書いている本もあります。

ウソではないのですが、精神的健康度が低いときに読むとキケンかもです。

このノンデュアリティは哲学的な話で、言ってしまえば「言葉アソビ」なわけです。

遊びなので真に受けてはいけません。

死んだところで問題は解決しないし、また新しい問題をかかえるだけです。

2030年あたりに、ノンデュアリティをかんちがいして死をえらぶ人がいるかもです。

せっかく生まれてきたんだから、たまにはSoraでもながめながら、ゆるふわに心地よく生きるためにノンデュアリティの考えかたをつかってもらえればなぁと思っています。

ノンデュアリティを活用するポイント

ということで、自分というモノは存在せず、そんな自分がかかえている悩みや苦しみもない。

そう考えられるのがノンデュアリティのメリットだということを紹介しました。

で、それを浅く受けとるとデメリットもあるので、お互い気をつけようぜという内容です。

このノンデュアリティを取り入れると、

「思考の抽象度を調節する機能がつく」

と僕は思っています。思考の抽象度を調節することで、いろんな視点でモノゴトをとらえやすくなります。

ほとんどの人が、自分の目線でしかモノゴトをとらえられません。

自分の見ている世界がすべてで真実と思いこんでいます。

そして、起きたことは自分にやってくるもので、それをどうすることもできないと思っています。

んで、起きたことで自分が傷ついたとか楽しいとか感じます。

それは正しいのですが、それは一つの視線でしかモノゴトをとらえられていないわけです。

思考の抽象度を調節することで、いろんな視点になれます。

たとえば誰かがボールを投げてきたら、投げた人の視点にも、ボールの視点にも、それを見ている第三者の目にも、いろんな視点になれるのが思考の抽象度が高い人です。

ノンデュアリティは思考の抽象度を調節するものです。

どうやれば身につくとか方法があるわけじゃないですが、興味がある人はセッションで、そのきっかけはお伝えできます。

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